推すことについて

ファンになって、現場に出かけるようになって一年以上が過ぎた。感想はTwitterはてブロなどで書いたりしているけれど、一向にファンの友達ができない。現場で会えるような友達がほしいなあと、Twitterでやりとりしている他の人たちを眺めてはずっと思っている。わたしも友達がほしい。現場に出かけてこんなところがよかったねえ!と言い合える友達がほしい。

なんとなく仲良くなれそうかな?住んでる地方一緒だな?みたいな人をフォローしてもイマイチうまくいかなくて、ググっても「なんでわたしと同じようなツイートしてるのにこの人の方がふぁぼ数も多くてフォロワーも多いの?」という妬みのようなもやもやした気持ちしか出てこなくなった。これは精神衛生上よくないので、あまりしないようにしている。それでもたまに思い出したようにググっては、「この人は中心みたいな人なのかな」「中の人と繋がりたいという気持ちがスケスケでむりだな」「純粋なファンではなくこういう人が贔屓される現場だったらいやだな」と悪い方にしか思えないのでやっぱりググらないほうがいい。寧ろ全部ブロックだ。


ふぁぼ数とフォロワーが多ければいいというわけでは断じてない。ツイートの価値はツイートした本人が決めたものがすべてだ。でも、時々心が折れてしまうことがある。わたしのすきとあのひとのすきは何が違うんだろうって。


思うのは、耳を傾けるべきはよくわからないファンたちではなく、推しの書いてくれてるブログや話してくれてるラジオで語られる本人からの言葉のほうではないか。推しはブログを開設してからほぼ毎日更新を続けてくれている。本当にマメだと思う。ラジオも毎週放送があるし、推し自身の話もしてくれている。そのことについて、わたしがどう思ったのか、どう感じたのか。わたしと推しの間の出来事を少しずつ積み重ねていく。誰と比べるでもなく、わたしと推しのはなしを。わたしが考える「推す」はこういうことだと思う。ということを思い出せば、心が折れても修復は早いのではないか。それに元々ファンの友達はいなくても、元々推しのファンではないいつもの自分の友達に、推しのすてきなところを伝えることはできる。たぶんそれでいい。好きな友達にすきなひとのすてきなところを伝えられることも、とても幸せなことだ。